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2017-03-15

「受け入れるのが、怖いですか?」- 別れの準備に本当に必要なこと【関係者座談会】


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2017年3月某日、私達一行は、伊万里にある「曹洞宗・本光寺」を訪ねました。

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【人の生死】に携わる方々が一堂に会し、思いを交わした時、変化の大きい”今”の時代を生きる私たちにとって、必要なことが見えてきました。

記者の私が同行させていただいて感じたこと、お伝えしたいと思います。

あなたも「受け入れるのが、怖いですか?」

私の母が、ある時ポツリ…と呟いているのを聞いたことがあります。

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「私は、おばあちゃんが死んでしまったら、もう正気で生きていけないかもしれない。」

私の母は祖母と大変仲が良く、姉や私を育てる時などは、おばあちゃんがいなければきっときちんと大きく育てられなかった、と私に良く教えてくれます。

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母にとって、祖母は大きな大きな存在だと、常日頃から感じる機会は多いのです。

だから母は、きっと、無意識に感じているのだと思います。

『死を受け入れるのが怖い。死を受け入れられなかったその時、自分が壊れてしまうのが怖い。』と。

死を避けて歩くことが、いつかの悲しみに繋がるのではないか?

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祖母はもう83歳。でも私の母と祖母は、「死」について話し合う機会をほとんど作っていないのではないかと思います。

でもそれは、私と母、そして父も同じです。

想像するに、きっと皆さんも同じ状況の方が多いのではないでしょうか?

しかしそれは…

前述した私の母のように、【死を受け入れられない】という、いつかの悲しみに繋がっていってしまうのではないかと…

私は心のどこかで、危険信号を感じるのです。

では「旅立つ人」と「見送る人」にとって、やるべきこととは何だろう?

今回の座談会には、立ち位置の違う「見送る準備を共にする」職業の方々が集いました。

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私は、彼らの会話の中に、私の母が祖母と生きること。

そしていつか訪れる死を受け入れて、その先の人生を生きる為のヒントが詰まっているように感じました。

あなたとご家族にも、きっと私と同じような発見があることと思い、一部ですがお伝えしたいと思うんです。


曹洞宗・本光寺/小島住職 – 「日常からお寺と関わる意味」

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現代では葬儀の時だけ仏教やお寺に関わる、という方が増えました。でもそうではなく、日常的な関わりを持っていただきたいと思うんです。

昔は、「家を買うから、お坊さんに相談しに行ってみよう。大切な相談事は、まずお坊さんにしてみよう。」と、話をしにお寺に足を運ばれる方も多かったんですね。

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そういった日常の関わりの中で、お寺の存在を認識したり、仏教に触れたり…それがご先祖について思いを馳せ、自分の存在を系統立てて考えるきっかけになったり…。

そんな繋がりから自然と、生きること、死ぬことを見つけていきます。

だからお寺に来るということは…安らぎを持って亡くなっていけるようにという、生きていれば誰にでも訪れる、“死”への準備教育をしていることに繋がるといえますよね。


葬儀会社・羅漢(糸島市)/徳久社長 – 「亡くなる前に準備をする大切さ」

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昔は死を迎える準備を、亡くなる前にするのはタブーという雰囲気がありましたが、今はそうではないと思うんです。むしろ、亡くなる前に準備をすることが大切な時代になったと思います。

私たちは葬儀会社ですが、民間救急(※緊急性がない患者さんの有料での運搬サービスの事)や終活、ご葬儀の積み立ての保険のお手伝いなどもしています。

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複合的に関わらせていただくことで、いざ亡くなった時のお金等の物理的な準備はもちろん、心の準備も同時にお手伝いさせていただけますよね。


骨壺・白磁彫刻家/英一郎さん – 「終の住処である骨壺を選ぶということ」

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美のエッセンスが入ったお骨壺を【終の住処】に選ぶということ。

それは、旅立つ方にとっては、『私はここに入るのね』という気持ちで、“死”という、人として最後の大仕事を務めるための心の慰めに。

そして見送った方にとっては、その先の日々を生きていくための、心の癒しを受け取り続けることに繋がります。

imari08そして、そのお骨壷を身近に置くことによって死を忘れない、死を知ることは生を知ること。

より有意義な生を見つめる事が出来るのだと思います。


料亭 桜坂観山荘(福岡市)/小野店長 – 「終活について気軽に聞きに来られる場所に」

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私たちは結婚式や、法事の席の会食などを承っています。

そんな冠婚葬祭に日常的に関わる桜坂観山荘は、話題にしにくい「終活」のことを少し気軽に聞きにいける場所でありたいと思うんです。

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そんな思いで、終活セミナーを開きました。

以前親子で来ていただいた方の会話で、お母様が「何で死ぬ準備をしないといけないの?」と不安そうに聞き、娘さんが「まずはお話を聞いてみるだけよ。」と仰っている場面がありました。

そこで私達は、何故このようなセミナーを開いているのかをお母様にお伝え致しました。

私たちが客観的にご説明を加えるだけでも『あら、そうだったのね。』と納得していただけることってありますよね。

こんなシーン、場所って、必要ではないでしょうか?

死ぬことは自分だけのものじゃないという気づき

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皆さんの会話の中に共通した考え方、それは何らかの形で「納得して死を迎える」ということだと思います。

それは、旅立つ方のみならず見送る方にとっても、ということでもありました。

「死」は私たちに【別れ】という悲しみをもたらします。

しかし、皆さんの目線で「死」をもう一度考え、行動すれば、訪れるその時を随分と違った形で迎えることが出来るのではないのでしょうか?

更に、小島住職はこうも仰いました。

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話し合い納得して「死」を迎えるということは、精神的なケアに繋がるだけではありません。

旅立つ人は【人には必ず死が訪れる】ということを行動で示し、

見送る人は【人には必ず死が訪れる】ということを実感し、【では自分はどうしたいか?】を考える。

そんな大きなキッカケにもなるのです。

と。

物理的な準備と同様に大切な【心の準備の機会】に気付こう

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旅立つ方にとっては【安心して穏やかに逝く】ために。

見送る方にとっては【その先の人生を、活力を持って生きる】ために。

だから私たちは、お寺に足を運び、お骨壺を選び、終活をし、葬儀をする。

これらの1つ1つが物理的な準備とともに、大切な心の準備の機会だと捉えたい。

今回の座談会を取材して、私はそんな風に感じました。


この発見を皆さんにお伝えするため、粗末ながら今回は文章にして綴ってみました。

いかがでしょうか?

私は、私の感じたことを母に伝えたいと思うんです。

あなたと大切な人にも何か感じて、考えたり、行動をするキッカケになるといいなと思いつつ、今回の記事をしめたいと思います。

(取材・記事/(株)アジアン・マーケット 室井 友希)


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